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定浦

鈴木重成は1645年(正保2年)定浦として、7カ浦を指定した。
定浦とは公用舸子(水夫・
かこ)役の確保と漁業の運上(税)統制を図って定めた制度である。
さらに2代目代官重辰は、1659年(萬冶2年)17カ浦に増やし、全郡の舸子役299人、浦高965石2斗6升8合と規定した。
舸子役の299人、この定数は幕末まで変わっていない。
定浦にはそれぞれ弁指
(べんざし)を置き、漁業の経営一切の責任を負わせた。また、弁指の元締めとして、総弁指に富岡の中元家(世襲)を指名した。

 17カ浦は、富岡浦二江浦御領大島浦佐伊津浦、亀川浦、楠浦、大多尾浦、湯船原浦、二間戸浦、樋島浦、高戸浦、大道浦、御所浦、牛深浦、中田浦、崎津浦、大江浦である。
さらに、幕末の安政3年(1856)には、24カ浦に増加した。これは、舸子役株の売買、親浦子浦契約、組内の分株などが進んだ結果である。
特徴的なものとしては、疱瘡が流行し、難儀の状態に陥っていた湯舟原浦は、舸子株を大浦と大島子浦に売買した例がある。
また、亀川浦は、漁業が衰微し、舸子役を高浜浦と佐伊津浦に譲渡して消滅した。
 舸子(かこ)とは水夫の意味で、他村地先までわたる広大な漁業占有権が与えられた見返りに、公儀筋の必要にしたがい、舸子役数に応じた水夫や船、或いは舸子役銀の提供義務が義務付けられた。
という事は、定浦に指定されていないところは、目の前に青々とした海が広がっているにも関わらず、漁業の権利はなく、歯がゆい思いだったろう。
それだけに、株を買ってでも、舸子役を手に入れるメリットは大きかったようだ。


太字は重成が定めた7カ浦。
 

定 浦
定浦 指定年 1659年
(万治2年)
1856年(安政3年) 備 考
舸子 浦高 舸子
富岡 富岡 1645 35 176.9.3.0 35
井手 二江 1645 17 4.9.3.0 17
御領 御領大島 1645 17 121.2.0.0 17
佐伊津 1645 10 32.7.5.8 14 幕末、240軒、2100余の漁家人口
亀川浦から4人譲渡される
本戸 楠浦 1659 10 11.0.0.0 10 明治初年、140軒、700余の漁家人口
亀川 1659〜1803 9 (25.6.0.0)  漁業活動が衰微し、高浜浦と佐伊津浦に譲渡し消滅・浦高()は1659年当時
大多尾 1659 5 5.9.5.0 5 明治初年、漁家人口約200人
栖本 大島子 1673・1715 0.0.0.0 5 疱瘡が流行し難儀の状態に陥っていた湯船原浦から前後2回、舸子役株を買い入れて定浦に仲間入りした。
大浦 ? 0.0.0.0 2 湯舟原から譲渡される
湯船原 1645 12 9.2.4.0 5
砥岐 二間戸 1659 101 12.9.6.0 3
樋島 1659 72.1.6.0 11
高戸 1659 137.5.4.0 21.25
大道 1659 93.2.6.0 24
御所浦 1659 49.7.8.0 31.25
棚底 0.0.0.0 5.5 砥岐組より株分けさる
宮田 0.0.0.0 5 砥岐組より株分けさる
一町田 中田 1659 7 5.0.0.0 7
久玉 牛深 1645 44 185.8.8.0 37   
深海 0.0.0.0 2 牛深浦から分かれ親浦子関係
久玉 0.0.0.0 2 牛深浦から分かれ親浦子関係
宮野河内 0.0.0.0 3 牛深浦から分かれ親浦子関係
大江 崎津 1645 31 16.5.8.0 31   
大江 1659 1 4.5.0.0 1   
高浜 1803 0.0.0.0 5 亀川浦から譲渡される
299 965石2斗6升8合 299
 ※ ゴチックは鈴木重成が、正保2年(1645)に定めた7カ浦。

≪参考資料≫

 本渡市史
 天草島鏡
 苓北町史
 天草近代年譜