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江戸時代・荒廃から人口過剰の時代へ



 天草島原の乱で天草島は人口が半減した。
 乱前は2万5千人いた人口が乱で推定1万3千人の減。
 移民政策により、乱20年後の万治元年(1658)、人口16,000人に回復した。
 そして、その後急激な人口増となるのである。どのくらい急激かというと、乱から223年後の万延元年(1860)には、15万5000人、実に13倍も増えている。
 ちなみに現在の天草島の人口は約14万人である。
 それでは、全国的に人口が増えたかというと、ほとんど増えていない。(1721年、2千607万人-明治維新時3千万人)。なぜ増えなかったかというと、当時の食糧事情から、3千万人が精一杯だったのである。

 天草の石高は約2万石。一石が年間一人当たりの消費量という。ということは、天草の食糧生産から養いうる人口は、計算上2万人が限度である。しかも、この2万石は、全て島民が消費してこその計算。年貢として4〜5割を取られていることを考えると、さらに少なくなる。
 
 では、貧しいはずの天草で、なぜかくも人口が増えたのだろうか。
 当時の避妊技術や堕胎技術からして、人口増は避けられない。そこで、何をもってしたかというと、間引きだったという。つまり、生んですぐ子供を殺すことである。
 それを証明するように幕府は、この間引きに対して、間引きを行わないように明和4年には御用触れを出している。
<天草近代年譜>
 しかし、天草人は、この間引きを行わなかった。
 その理由として、キリシタンの教えとその後の仏教の影響を強く受けていたためと思われる。また、貧しいとはいえ、から芋が普及し、イワシなどの海産物も豊富で、それなりに米を食わなくても食糧は確保できたのである。
 また、新田開発も盛んに行われた。天草は天領であり、私領よりも支配が緩やかで、隠し田畑なども開発されたという。
 
 しかし、開発の規模は小さく、人口が増えれば増えただけ天草の百姓たちは貧しくなっていく。やがてこの急激な人口増は、銀主の台頭による貧富の差の拡大が、拍車をかけたこともあり、相次ぐ百姓一揆をもたらすことになる。

江戸時代の人口推移

 寛永十五年 (1638)    17,600人
 万治元年   (1659)   16,000余人
 正徳元年   (1711)   52,785人
 延享三年   (1746)   74,657人
 宝暦十一年 (1761)    89,982人
 (キリシタン類族 1,483人)
 寛政六年   (1794)   112,000人余
 文化十年   (1813)   139,041人
 文政十二年 (1829)   141,529人
 天保二年   (1831)   141,588人
 天保三年   (1832)   143,806人
 天保九年   (1838)   142,782人
 万延元年   (1860)   155,075人

 <参考・>
  富岡の人口 寛延三年 (1750)  1,913人 (男 965人 女948人) 
※ キリシタン類族 227人
  江戸の人口 元禄六年 (1693)  約353,582人
  全国の人口 享保六年 (1721)  2,607万人

 (『天草近代年譜』『本渡市史』)より

 天草の人口がどのくらいの増であったのか、表にしてみたので参照されたい。


 天草の人口増のグラフ(PDF)