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牛深の歴史・文化碑

 宇良田玄彰 顕彰碑    牛深の自然と観光  
 藍より青く 記念碑    権現山  
 ハイヤ節発祥の地碑    遠見岳  
 平野成政碑    鳥帽子抗  
 官軍墓地    鎮魂の丘  
 西国三十三観音像    無量寺石橋  
 一石二字一宇十念供養石佛      

自由民権家 宇良田玄彰 顕彰碑  牛深市牛深町真浦

 

肖像画(又間美代子画)

 宇良田玄彰は天保12(1841)年5月10日、牛深村の大銀主萬屋浦田助七の二男として生まれる。しかし、長男は既に亡くなっており、実質長男として育つ。
 13歳の時に父が亡くなったため、一家を背負う
身であったが、20歳で京都へ登り、仁和寺の書生となった。その後長崎で坂本龍馬に学ぶ。
 そして、明治になると、「民権伸張・改進主義」を思想を持つ。

 明治10年西南戦争が勃発すると、西郷隆盛と明治政府内外の各要人に建白(意見)書を提出して、戦争の無謀さを批判、その終結に努めた。
 11年に東京で『憂国議事新聞』を発行し国民世論の政治的向上に尽力する。

 明治22年日本国憲法制定翌年の第一回総選挙に当たって自由・民権の思想を追求し、それに見合う代議士の登場を願い、本渡に於いて開催された天草改進党の創立大会では自ら祝詞を披露して「天草ありてより以来未曾有」の大盛会と記されるような大会の成功をおさめた。

 30年より牛深村の村長を一年勤めるも、病身となり隠退し明治36(1903)年6日1日、63歳にして生涯を終えた。

 宇良田玄彰は、天草唯一の自由民権思想家および運動家として、日本の歴史においてもその足跡を後世に伝えるほどの、勝れた実績を残したと言えよう。

 
自由民権家
宇良田玄彰
       顕彰碑


宇良田玄彰は天草牛深の大銀主万屋浦田家に生を受け明治五年から民権思想家としての道を歩みはじめ同一〇年の西南戦争勃発に際して、西郷隆盛及び政府に対して「建白」の意見書を提出し同二十年代は改進的民権主義の思想で東京にて「憂国議事新聞」を発行し明治前期全国視野で九州の指導者として活躍したスケールの大きい民衆偉人である。
 
宇良田玄彰の民権思想(抜粋) 
人民一般の自由権利ヲ度外ニ措クモノハ政治ノ思想ナキモノナリ
一社同胞ノ幸福ヲ思ハザルモノナイリ
専制主義ニ従順ナリシモノハ天下ノ憂ヲ憂ルモノアラザルナリ
政治改良ノ事件ニ経歴ナキモノハ国民本分ノ義務ヲ知ラザルモノナリ
<資料> 天草史学者文学者案内 天草史談会・天草文芸会 鶴田文史編著より (未発行) 

NHK連続テレビ小説 藍より青く 記念碑    牛深市牛深町天附 通天公園

牛深を舞台にした、NHKの連続テレビ小説「藍より青く」は、昭和47年に放映された。
脚本、山田太一。主演、真木洋子。
「あいよー」という牛深弁が大評判となり、全国的に天草・牛深をアピールした。
この年、ボクは北海道を自転車で回ったが、どこから来たのかと問われ、「天草です」という、あの「藍より青く」の天草ですかと、本来なら名前を知らなくてもおかしくない、北海道の人にも、天草を知らしめたドラマであった。  

ちなみに、真木洋子が演じた役名は「真紀」。この名からとった、「まきしゃん漬け」という、イカの塩辛が、港の近くのみなと屋という土産物店で売られている。普通イカの塩辛は、はらわたも利用しているが、この塩辛は、身だけで作られており、ボク的には大変おいしい。
太平洋戦争末期から敗戦後にかけての、熊本県天草を舞台にしている。

ヒロインの真紀は、厳格な校長である父に反対されながらも網元の息子周一と結婚するが、長男が生まれる前に夫は出征、そのまま帰らぬ人となる。周囲に支えられながら、真紀は戦争未亡人同士で商売を始め何事にも負けず強く明るく、中華料理店を経営するまでを描いた。

NHKのアーカイブには、第1回しか残されていない。当時、家庭用ビデオデッキは存在したが、テープの経年劣化も考えると、視聴者が録画して現在まで保存している可能性は低く、放送映像が民間から発見される可能性はほとんどない。そのため全話の再放送および全話収録の完全版映像ソフトの製作・発売は困難である。

1972〜73年の平均視聴率は47.3%、最高視聴率は53.3%であった
(関東地区、ビデオリサーチ調べ)

<ウィキペディア>

映画ならばフィルムが残っているが、ビデオで撮影されたようで、それが現存していないというのは、何とも悲しい。
更に悲しいのは、いっぱいの笑顔を見せて、熱演してくれた主演の真木洋子さんが、2000年に51歳の若さで亡くなった(急性骨髄性白血病)ことだ。
 
「藍より青く」は、私たちに郷土のもつ美しさと、ありがたさを、強く心にきざみつけた作品でした。祖先から受けついだこの自然美、そしてここにつちかわれた人情を、余すところなく後世に伝えるため、市民各位の浄財を仰ぎ、撮影を記念して、ここに碑を建立しました。
   昭和49年3月吉日
   記念碑建立期成会
   会長 牛深市長 西村武典
   副会長 観光協会長 川上武一
   仝商工会議所会頭 桑島峯男 
  この港のなにが私をとらえたかを一口に言うのは難しい。
それは青い海であり、舟群、家並、路地、裏山であり、人々であり、そのいちにちであり、歴史であり、四季でもあった。
私の物語に他の舞台を考えることは出来なかった。
 山田太一 
  原作者 山田太一
主 演 真木洋子
放映開始 昭和47年4月3日
放映終了 昭和48年3月30日
 

ハイヤ節発祥の地碑   天草市牛深町通天公園近く 他

 牛深といえばハイヤ節。ハイヤ節といえば牛深。
 ハイヤ節は牛深の生れながら、その子孫を全国各地に伝えている。
  
  ハイヤハンヤは
  何処でもやるが
  牛深ハイヤは
  元ハイヤ


 「ハイヤ節」は元禄時代から唄いだされたもので、当時の船乗り達が荒浪を越える人達の心情を唄いあげたものである。当時寄港船の船乗りを相手に、牛深で女が大いにもてなし、時化ともなれば何処の料亭も賑わいを見せ、三味線、太鼓等その場に有るものをたたいて調子をとり、熱狂的に唄い踊り一文無しになる迄遊び過ごした姿を、「酒盛り唄として唄いつがれたのがハイヤ節」だと伝えられ、密貿易船と共にサツマ、長崎、北海にと、日本海の暖流に乗って全国にの港町に上陸し、歴史と共に唄い続けられてきたが、これを牛深市恒例の「ハイヤ祭り」として永く後世に残すため、この碑を建立するものである。
 
 牛深ハイヤ節

 (
) ハイヤエーハイヤ

    ハイヤで今朝出した船はエー

    何処の港にサーマ入れたやらエー

     エーサ牛深三度行きゃ三度裸

     鍋釜売っても酒盛りゃして来い

     戻りゃ本渡瀬戸かち渡り

 () ハイヤエー北風かと

    思えばまた南風の風ヨー

    風さえ恋路のサーマ邪魔をするエー

     エーサ黒島沖からやって来た

     新造か白帆か白鷺か

     よくよく見たればわが夫様だい

 () ハイヤエーハイヤ

    ハイヤで半年ゃ暮すエー

    あとの半としゃサーマ 寝て暮すエー

     エーサ段々畑のサヤ豆は

     ひとサヤはしれば皆はしる

     私ゃお前さんについて走る

 () ハイヤエー大島

    片島、片潮かけてヨー

    なぜに法ケ島がサーマほげたやらエー

     エーサ南風の風ゃそうめん北東風ゃだして

     も一ついれこで味ゃよかろ

 () ハイヤエーとっちゃ投げ

    とつちゃ投げ三十四、五投げたエー

    投げた枕にゃサーマ罪はないエー

     エーサ何処から来たかい薩摩から

     いかりも持たずにようきた様だい

    

 () ハイヤエーたんと

    売れても売れない日でもエー

    同じ調子のサーマ風車エー

     エーサ魚貫万匹、茂串鯖、宮崎鰹ン骨

     横ぐわえ加世浦キビナゴ逆すごき

     天附渡れば室鯵の魚、三ごんなめたらどっとした

 () ハイヤエー咲いた

    桜になぜ駒つなぐエー

    駒が勇めばサーマ花が散るエー

     エーサ風が寒いか師走が寒いか

     風さえ吹かねばいっしょまっしょ六月

    

 () ハイヤエー鯛に

    鰹に、鯵、鯖、鰯エー

    鰤に万匹サーマ 鱶の山エー

     エーサ牛深良いとこ一度はおいで

     人情豊かな港町

 

 () ハイヤエー船は

    出てゆく、帆かけて走るエー

    茶屋の娘がサーマ出て招くエー

     エーサあおさやったとん届いたかい

     届いて煮て吸っても舌焼いたサイサイ

    

 () ハイヤエー沖の

    瀬の瀬にドンと打つ波はエー

    あれは船頭さんのサーマ度胸定めエー

     エーサ権現山から後ろ飛びゃするとも

     お前さんに暇状は、やいもせんば といもせん

 
 
<参考資料>
 天草の史歌・民謡集 鶴田文史編 天草史歌民謡研究所刊
 はいや・おけさと千国船 竹内勉著 本阿弥書店刊
 
 

平野成政碑


官軍墓地


西国三十三観音像 天草市久玉町無量寺境内  


一石二字一宇十念供養石佛  天草市久玉町無量寺境内