歴史索引


天草島原の乱前夜から終結までのキリシタン関係年表
 『天草近代年譜』松田唯雄著より

1604 慶長 9 09.--   この頃、長崎ではキリスト教が盛んになり、仏寺ことごとく廃絶する。
1605 慶長 10 04.16   徳川秀忠、征夷大将軍となる。
1605 慶長 10 04.26   幕府、松浦鎮信、有馬晴信、五島玄雅、鍋島直茂等に南蛮渡航の朱印を授ける。
1605 慶長 10 07.01   幕府、島津忠恒等に安南渡航の朱印を授ける。

 
※安南=ベトナムの旧称。中部ベトナム王朝を指し、日本人町ができ、朱印船が往来した。(日本史辞典)
1605 慶長 10 この年   南蛮船初めて煙草を伝える。タバコ大いに流行する。
1605 慶長 10 この年   領主寺沢広高、幕府の意を慮り、番代に命令し、郡内各所の教会堂を毀し、十字架を倒し、禁教を強制する。そのため、志岐、上津浦の司教館のみ残存し、パードレ5人、イルマン2人在住する。
 ※パードレ=神父、イルマン=修道士
1607 慶長 12 この頃   天草全島中、志岐、崎津、上津浦の3カ所に天主教会堂存在し、パードレ3人、イルマン2人在住する。
1608 慶長 13 12.08   再び永楽銭の通用を禁じ、金銀鐚銭取引の制を定める。
1609 慶長 14 01.11   八代にて、ミカエル三石彦右衛門、その子トマス(11歳)とペテロ(6歳)、ヨハネ服部甚五郎殉教。
 4本の槍に刺されて首級は町の東門に晒される。
1611 慶長 16 06-24   加藤清正死去。50歳。
1612 慶長 17 03.14   幕府、京都の天主教会堂を毀し、布教を禁じる。
1612 慶長 17 この頃   天草には、志岐、上津浦の2会堂のみ存続し、パードレ、イルマン一人づつ在住する。
1612 慶長 17 03.22   家康、島原城主有馬晴信、岡本大八事件に関し、その封を解き、甲斐に流す。
1612 慶長 17 05.06   有馬晴信、切腹を命じられる。(46歳)ただし、晴信の子直純は家康の曾孫の婿のため、島原城主となる。
1613 慶長 18 02.--   家康、キリスト教を邪宗と称し、全国に禁令を布く。
1613 慶長 18 05.--   幕府、切支丹宗門取締規則を発布する。
新たに宗門改めの制を設け、庶民をしてあまねく仏教のある一宗に帰依させる。僧侶には宗旨公認の特権を与えて、各寺に宗旨人別帳(宗門帳)を備え置き、檀徒の宗旨を一々これに記し、婚姻、死去、旅行等に至るまで、逐一管理する策をたてる。
1613 慶長 18 12.--   富岡番代川村四郎左衛門、上旨に従いキリスト教徒の検挙に着手、宣教師には退去を命じる。
上津浦駐在のイルマン、ママコスこの月に未鑑の書を残して去る。
1614 慶長 19 01.--   諸大名幕府の命を奉じ、領内キリスト教徒の禁圧にかかる。
富岡番代川村四郎左衛門、引き続き教徒弾圧に専念する。志岐の教会堂を破壊し、バードレ、ガルシャ、ガルセスに退去を命じ、かつ富岡のアダム荒川を捕え過酷な拷問を続ける。
1614 慶長 19 この頃   領主寺沢広高、特に一向宗の郡内仏教を公認し、番代をして切支丹の転宗者は、あまねくこれに入れる。そのため同宗の郡中進出めざましく、東西両派を合わせて25ケ寺を数えるにいたる。
1614 慶長 19 02.--   この月に入り、切支丹宗徒大追放。
高山右近、内藤如安等続々長崎に護送される。
1614 慶長 19 03.--   長崎のキリシタン教徒、百方手を尽くしこれら追放赦免の運動を試みるも何等効果なし。
1614 慶長 19 04.1   キリシタン教徒、最後の手段として、大々的宗教行列を行う。
行列は、この日より21日まで10度行われ、殉教者の装いをする数千の教徒が街々を練り廻り、各キリシタン寺院を歴訪、その状態は悲壮を極める。
1614 慶長 19 06.05   その日の早朝、アダム荒川を志岐の刑場に曳き、首刎ねの上遺骸は海に投じる。(60歳)
1614 慶長 19 この頃   相次いで佐伊津村を脱出した伝道師ソテロ工藤(52歳)、口之津にて殉教し、志柿村のトマス永野仁右衛門(31歳)、ドミニコ永野与一(27歳)兄弟は斬首の厄に遭うなど、迫害の手は次第に東筋へ伸びる。
1614 慶長 19 09.24   上使山口駿河守友直下向し、この月中旬長崎に着き、教徒追放の急速断行を督促する。
よってジャンク船3艘を艤装し、教徒をそれぞれ分乗させ、一艘はマニラに向け、他の二艘はマカオに向け、この日出版する。
右近、如安等はマニラ行に、宣教師の一団はマカオ行に振り当てられる。
もっともその内若干名の宣教師は、長崎港を遠く離れないところ辺から、島影よ漕ぎ寄せた信者の迎船に乗り移り、ひそかに立ち戻る物もある。
1614 慶長 19 09.--   山口駿河守友直、令を鍋島、寺沢、有馬、松浦、大村の五大名に伝え、長崎のキリシタン寺院を破却させる。
1615 元和 1 01.--   富岡番代川村四郎左衛門、なおも教徒迫害の手を緩めず、更に上津浦教会堂を破壊し、留守居の住持(一向宗僧侶)を退去させる。
1615 元和 1 02.05   高山右近、マニラにて病没(60歳)
1615 元和 1 05.08   大坂夏の陣・豊臣氏滅ぶ。
1615 元和 1 閏6.13   幕府、一国一城の制を布き、諸大名に命じて各居城以外の城塁を毀せる。
ただし、富岡城は長崎備えのため、そのまま存続するさせる。
1615 元和 1 09.09   幕府、朱印船を限定する。
1616 元和 2 04.17   徳川家康死去。(75歳、奉号安国院殿東照宮)
1616 元和 2 08.08   幕府、キリスト教を厳禁し、唐船を除き、外国商船の長崎、平戸のほか寄港するのを制禁する。
1616 元和 2 この年   松倉豊後守重政、和州郡山より国替えし島原城主となる。

 
※和州=現在の奈良県
1617 元和 3 この年   フランシスコ・バシエゴ・ヨハネ、パブチスタ・ゾラ・ヨハネ、ダ・フォンセカの3神父及び邦人宣教師ジュリアノ・デ・中浦来島し、志岐、上津浦を巡回する。

 
※ジュリアノ・デ・中浦=遣欧四少年のひとり・中浦ジュリアン・寛永10年穴吊るしの刑で殉教
1620 元和 6 この頃   シャム(タイ)、ルソン等に日本町がある。
 
1621 元和 7 08.03   大矢野直種、初めて肥後城主加藤忠廣に仕え、玉名郡に采地250石を賜る。
 
1621 元和 7 08.--   栖本鎮弘、肥後城主加藤忠廣に仕え、益城郡に采地250石を賜る。
 
1621 元和 7 08--   上津浦六左衛門、肥後城主加藤忠廣に仕え、采地250石を賜る。
 
1621 元和 7 この年   七代富岡番代として三宅籐兵衛着任する。(千石)
 
1621 元和 7 この年   ミカエル・カルヴリヨ神父、日本潜入に成功し天草に来る。
宗徒の家に潜伏し、日本語を習得する。
 
1623 元和 9 この頃   天草在住のパードレ二人。一人は大矢野に在。
1623 元和 9 この年   ミカエル・カルヴリヨ神父天草を去り、大村に赴いたところを捕えられ、獄につながれる。
1624 寛永 1 この年   二人の宣教師が天草に在る。特にパードレ・ボール・ゾウノは大矢野を地盤に熱心に布教をする。
1624 寛永 1 この年   寺沢広高、将軍家光の意を受け、富岡番代に領内のキリシタンの取締りを厳しくさせる。
そのため、ルドーウィコ六左衛門夫妻、大矢野にて殉教、神父ボール・ゾーノは肥後に追う。
1624 寛永 1 この年   ミカエル・カルバリヨ、大村の獄より長崎に送られて火あぶりの刑に処される。
1625 寛永 2 この年   島原藩主松倉重政、将軍家光の意を受け、家老に命じて領内のキリシタンを禁厭させる。
このため、志部長フランシスコ・パシェゴロ、口之津で検挙され、長崎に送られて火あぶりの刑に処される。
1625 寛永 2 この年   領主寺沢広高隠居し、嗣子堅高(17歳)が家督を継ぐ。
富岡番代、三宅籐兵衛、賀儀のため唐津へ戻り、番代永勤の推挙を受け、家族同伴で帰富岡。
1626 寛永 3 この頃   天草全島中、西目筋にパードレ二人在住する。
1627 寛永 4 この年   長崎奉行竹中采女正重義、島原キリシタンのの大検挙にかかり、天草大矢野の信徒も若干これに連座して、殉教する。
1628 寛永 5 05.05   重ねて、切支丹の禁令が出て、長崎キリシタン処刑を長崎奉行水野守信に命令する。
1628 寛永 5 この年   富岡番代三宅籐兵衛、唐津本藩よりの招きに応じ、切支丹禁厭の打ち合わせのために帰藩する。
1629 寛永 6 01.--   キリスト教会派遣のパードレ二人、ミカエル松田にペテロ・カイス天草に来る。
郡内特に志岐より西目筋、大江、崎津と巡回する。
1629 寛永 6 01.--   踏絵の令を発し、長崎にて実施される。
踏絵には木版が用いられる。
1629 寛永 6 06.--   富岡番代三宅籐兵衛、唐津より帰任する。
途中長崎奉行とも諸事談合を行い、断固弾圧の臍を固め帰城する。
帰城後、ただちに三郡代に出岡を求め、各村役を督励し、強制の手段に出ることを特命する。
1629 寛永 6 07.15   幕府、長崎のキリシタン教徒すべて仏教に帰教したとの報に接する。
1629 寛永 6 07.-   長崎奉行竹中采女正父子、キリスト教徒を捕えて島原温泉地獄の熱湯に投げ込む。
1629 寛永 6 07.--   天草でもこれに呼応して、この月より大々的に検挙迫害に着手する。
手近の富岡敷り始めて町役人トマス用左衛門の子ドミニコを流罪に処し、志岐教会堂の門番ジュリオ(82歳)を海に投げ込む。
また同地方の婦女子210数名を投獄し、その親等に棄教を迫る暴挙にでる。
1629 寛永 6 08.--   河内浦(一町田)の郡代では、信徒の子供等を竹篭に入れ、雨日に晒し、断食12日におよび、もってその一家の翻意を促す。
更に検挙の網を拡大し、迫害の手は大江ア津に伸ばし、軒別に臨検を強行、否応なしの棄教に及ぶ。
一月来島のパードレ二人も、迫害を受け、退去する。
1630 寛永 7 01.20   朝鮮人パウロ(60歳)、志岐にて生きながら海中に沈められる。
1630 寛永 7 11.16   島原藩主松倉重政死去。(57歳)
嗣子勝家襲封する。
1630 寛永 7 12.20   一町田村にて、ミカエル・井伊武左衛門(70歳)海に投げられる。
1630 寛永 7 この年   幕府、キリスト教に関する書籍の舶載を禁じる。
1630 寛永 7 この年   天草切支丹宗徒の検挙迫害なお持続され、所々に悲惨な殉教者を出す。
1630 寛永 7 この年   富岡番代三宅籐兵衛、キリスト教徒収容のため、富岡郊外野中(過書場=くわそば=あたり)に牢獄を建てる。
1631 寛永 8 この年   長崎奉行竹中采女正父子、長崎稲佐の海岸に大釜を据え、潮湯に硫黄を混ぜ、温泉岳の熱湯に交えてこれを以って教徒を責め苦しめる。
1632 寛永 9 01.24   徳川秀忠死去。(54歳、奉号台徳院殿)
1632 寛永 9 05.--   切支丹及び奉書船以外に、外国渡航禁止の高札が長崎に建つ。
1632 寛永 9 06.01   加藤忠広出羽庄内に配流。息光正は飛騨高山、息正良は上田沼田に流される。
1632 寛永 9 10.14   細川越中守忠利、肥後国並びに豊後鶴崎54万石を賜る。
1632 寛永 9 この年   長崎にて絵踏板、同町鋳物師裕佐の考案した青銅版に改められる。
1632 寛永 9 この年   富岡町役人トマス用左衛門の妻ヨネス、下男ヨハネ迫害され、生きながら海に投ぜられる。
1633 寛永 10 01.--   竹中采女正重義正重父子の長崎奉行勤役を解き、豊後府内に就封する。
1633 寛永 10 02.28   幕府、奉書船を除くほか、海外各国への渡航を厳禁し、かつ在外邦人帰朝の処罰方を定める。
1633 寛永 10 04.11   先の領主寺沢広高死去。(71歳)
1633 寛永 10 09.16   先に三神父を伴い天草巡視に及んだジュリアノ・デ・中浦捕らえられ、この日長崎で倒吊しの刑を受け殉教する。(66歳)
1634 寛永 11 05.25   重ねて邦人海外渡航、並びにキリスト教厳禁の令を布き、長崎に出島を築き、在留オランダ人をこれに移すこことする。
1635 寛永 12 09.06   幕府、キリスト教を厳禁の令を発し、さらに検挙するよう強要する。
1635 寛永 12 この年   気候不順、凶作。
1636 寛永 13 05.19   幕府、鎖国令を布き、邦人の海外密航及び帰朝者は全て死刑とする処罰方を定める。
1636 寛永 13 05.--   長崎出島竣工、オランダ人全てをこれに隔離する。
1636 寛永 13 この頃   長崎に在住の南蛮人との混血児287人を海外に放つ。
1636 寛永 13 この年   引き続き凶作。米価高騰し、庶民困窮する。
1637 寛永 14 06.--   この月半頃から天草全島にズイソのうわさが盛んに飛び交う。
※ ズイソ=最後の審判。中世のキリシタン思想で、終末思想感か。
  一揆の指導者が流した廻文に世の終わりの審判で地獄へ滅ぼされてしまわないために、キリシタンに立ち返らなければならない、とある。

 
1637 寛永 14 08.11   阿蘇山噴火し、砂石硫黄が降る。同月17日も同じ。
1637 寛永 14 09.--   連日天焼け、狂い花咲く。
宇土郡江部村に住む小西家遺臣益田甚兵衛の子四郎(16歳)、天草大矢野に迎えられ、姉婿渡辺佐太郎(上村庄屋渡辺小左衛門の弟)方に寓する。
1637 寛永 14 10.--   天草島原の乱
この月初め、四郎等中村鮫ケ浦太郎助方に移る。
種々の奇蹟を現す。
1637 寛永 14 10.07   四郎、教主に擁立させられ、中村の宮津に道場を構え、天草四郎時貞と称する。
巨頭大矢野松右衛門、千束善右衛門、森宗意等これに侍する。
1637 寛永 14 10.20   島原並びに天草の百姓間に動揺の色がある。
1637 寛永 14 10.22   天草では、番代及び郡代の命により、村役の者村々に出張し、船着場に番所を設けて往来のものを調べる。
 
1637 寛永 14 10.23   島原領有馬村北岡の百姓等、700余人が集まる。
1637 寛永 14 10.24   島原城の留守家老、部下を遣わしその首領を捕縛する。
1637 寛永 14 10.25   有馬原尾のキリスト教徒蜂起し、代官林兵左衛門を撲殺し、北岡屯集の農民勢800余と合体、一気に島原城へ押し寄せんとする。
1637 寛永 14 10.26   幕府、5人組の制を厳しくする。
1637 寛永 14 10.27   天草でも、大矢野、上津浦辺の教徒等蠢動する。
この日、熊本藩兵川尻に出張し、同港を警備する。
1637 寛永 14 10.29   富岡番代三宅籐兵衛、手兵100人を率いて本戸へ出陣、同地郡代役所に入る。
この日、熊本藩よりは兵を派遣し宇土郡三角港を固める。
1637 寛永 14 10.30   たまたま天草方教徒の大立物、大矢野中村庄屋渡辺小左衛門(27歳)、従者とともに四郎の母姉妹迎えのため、宇土郡江部村に至り、同村庄屋郡浦彦左衛門を訪ねたところを、その老母の偽計に引っかかり、遂に熊藩兵の手に捕らえられる。
この夜、大矢野勢秘かに海上より江部村をうかがう。
1637 寛永 14 11.01   四郎の母(天草方幹部千束宗右衛門の妹)及び姉妹等縛られ、渡辺小左衛門とともに熊本へ送られる。
この日、島原方の大江源右衛門等大矢野宮津に来て、ここに天草島原の教徒連携が成立する。
以来、数度の談合は、海上の孤島湯島にて行われ、今に談合島なる別名をもって呼ばれる。
1637 寛永 14 11.02   渡辺小左衛門の父阿村庄屋山城伝兵衛、推されて小左衛門の跡を継ぎ大矢野勢の首領となり、中村の古城を修築してこれに籠もる。
この日、番代三宅藤兵衛大島子に向かい、尖兵を配して上津浦勢の押さえに備え、即日引き返し本戸付近のキリシタン検挙にかかる。
1637 寛永 14 11.04   四郎、島原へ迎えられ大江に渡る。天草方幹部50名これに従う。
1637 寛永 14 11.05   天草島原の幹部連、相会して大評定ををする。
この日、寺沢堅高の手兵領内天草鎮定のため唐津を発つ。留守家老岡島次郎左衛門これを統率し、総勢1,500人、鉄砲160挺、兵船37艘に分乗する。
1637 寛永 14 11.08   島原キリスト教徒蜂起の報、江戸に達する。
1637 寛永 14 11.09   幕府、三河額田城主板倉重昌に討伐を命じ、目付石谷貞清をこれに付ける。
この日、在符の寺沢兵庫頭堅高、松倉長門守勝家に早々帰国させる。
1637 寛永 14 11.10   寺沢の唐津勢、富岡に着船する。
1637 寛永 14 11.11   唐津勢、本戸に廻航し、三宅方と合体する。
この夜、三宅籐兵衛諸将と会して諸般の打ち合わせを行う。
1637 寛永 14 11.13   四郎、上津浦の危急を聞き、1,500人を引率して島原より来援する。
この夜、島原の別隊500人、兵船を連ねて来、鬼池をうかがう。ここより上陸し、本戸の背後を衝かんとするものの様子。しかし、海岸の守備が固いと見て、にわかに船首を上津浦の本隊を目指す。
1637 寛永 14 11.14   四郎、未明に上津浦を発し、海陸両路より大挙来襲し、島子・本戸で唐津勢を破る。
番代三宅籐兵衛重利、本戸広瀬にて戦没する。(57歳)
この夜、教徒勢広瀬の大矢崎に野営し、大いに凱歌を上げる。
1637 寛永 14 11.17   教徒勢二江に結集し、富岡城を衝かんとする。島原勢も合流する。
1637 寛永 14 11.18   四郎、兵を志岐にすすめる。
1637 寛永 14 11.19   四郎、富岡城を攻めるが守りは固し。
この日、板倉重昌大坂に着く。
1637 寛永 14 11.22   四郎、再び富岡城を攻めるが抜けず。
この日、板倉重昌大坂を出出す。
1637 寛永 14 11.23   四郎、富岡城の囲みを解き、坂瀬川より乗船し、島原に向かう。
枝隊の天草方は、上津浦に引き返す。
1637 寛永 14 この頃   教徒勢が長崎へも押し渡るとのうわさにおびえ、市中騒然とし、老幼荷物を抱え逃げ出す。
時に、長崎奉行榊原職直、神尾元勝ともに上府していて不在のため、上下なすすべを知らず。
町年寄高木作右衛門、高島四郎兵衛、高木彦右衛門、後藤庄左衛門等、代官末次平蔵方で会し評議をする。結果、応援を大村藩に請い、船番、町使、牢人等を使役して、市中要所の警備を固め漸く安心する。
1637 寛永 14 11.27   幕府、更に老中松平信綱、戸田氏鉄を討伐のために派遣する。
1637 寛永 14 11.28   板倉重昌、豊前小倉に着く。
松倉勝家、島原に着く。
1637 寛永 14 12.01   板倉重昌、肥後高瀬に着き、豊後府内の目付及び近国の諸大名と会う。
この日、教徒等原城址の修築にかかる。
1637 寛永 14 12.03   四郎並びに幹部連が原城に入城する。
天草大矢野勢中村を捨てて、これに赴く。
この日、松平信綱江戸を発つ。
1637 寛永 14 12.05   板倉重昌、島原に着く。
この日、教徒勢入城する。
寺沢堅高、兵800人を率いて富岡港に着く。
1637 寛永 14 12.06   原城、修築なる。
重昌、原城に向かう。
1637 寛永 14 12.07   寺沢堅高、小島子に進駐し、付近を掃蕩する。ついで熊本藩兵の来るのを待ち、東西より上津浦を挟撃せんと留まる。
1637 寛永 14 12.08   原城内、仮小屋完成。
重昌、有馬へ着陣する。
1637 寛永 14 12.09   天草上津浦勢、同所を引き払い、全員原城に入る。
これにより、籠城の総勢は島原方2万3,100人、天草方1万3,900人、都合3万7,000となる
この日、攻囲軍隈田に結集する。
1637 寛永 14 12.10   攻囲軍、原城を包囲し、一番攻め、鍋島、松倉の両勢押し出すも失敗する。
この日、熊本藩兵が天草を攻める。兵数1万6,000余、細川光利を将として、家老有吉頼母従う。しかし、教徒勢は既に島原に去っていたため、大矢野柳浦に兵船を寄せたまま、直ちに上津浦に廻航する。
寺沢堅高もまた小島子より兵を進めて上津浦に押し入る。
1637 寛永 14 12.12   攻囲軍、城中に投降の矢文を送る。
この日、熊本勢上津浦を引揚、唐津勢は小島子に引き取る。もっとも、唐津勢手薄のため、熊本勢のうち二番隊を残し、加勢する。
1637 寛永 14 12.14   熊本勢、川尻に帰陣する。
1637 寛永 14 12.16   松平信綱、大坂に着く。
1637 寛永 14 12.18   信綱、大坂より攻城用大砲を輸送する。
鈴木三郎九郎重成、鉄砲の鍛錬があることによりこれの奉行となる。
1637 寛永 14 12.19   信綱、大坂川口を出船する。
1637 寛永 14 12.20   板倉重昌等二番攻めをする。鍋島、立花の両勢敗退する。
1637 寛永 14 12.22   籠城軍、矢文を射って防戦の理由を釈明する。
1637 寛永 14 12.27   板倉重昌、制令を出して、無断の先駆けを禁じる。
1637 寛永 14 12.28   松平信綱、小倉に至る。
1637 寛永 14 12.30   寺沢堅高、小島子に駐屯のまま越年する。
1638 寛永 15 01.01   原城総攻撃を行うも攻囲軍惨敗。
板倉重昌、突入してこれにより死ぬ。(51歳)
1638 寛永 15 01.03   松平信綱、島原に着く。
1638 寛永 15 01.04   信綱、有馬に至る。
1638 寛永 15 01.05   細川勢(肥後守光利、父越中守忠利の兵を率いて)有馬に着陣する。
1638 寛永 15 01.07   堅高、天草より兵を引き揚げ有馬に着陣する。
1638 寛永 15 01.10   信綱、海上より鉄砲で攻撃するが、意のままにならず。
更に、投降の矢文を城中へ送る。
この日、福岡の黒田勢、延岡の有馬勢、小倉、中津の両小笠原勢等着陣する。
1638 寛永 15 01.11   将軍家光、西国大名細川忠利、立花宗茂、鍋島勝茂、有馬豊氏、黒田忠之等に帰国を命じて、攻城に参戦させる。
この日、招きにより、オランダ船有馬沖に投錨する。
1638 寛永 15 01.12   細川忠利、江戸を発つ。
1638 寛永 15 01.13   オランダ船、海上より城中を砲撃する。
1638 寛永 15 01.15   島原城番として小笠原壱岐守、久留島丹後守を富岡城番として伊東大和守、松平主税を置く。
上使伊東大和守、松平主税、目付杉原四郎兵衛等天草に渡り、この日富岡に入城する。上使は二の丸、目付は出丸に詰め在番する。
オランダ人、海岸砲台より城中を砲撃する。
1638 寛永 15 01.16   城中より、オランダ船の砲撃に抗議する矢文飛来。
1638 寛永 15 01.20   四郎の母姉妹等、熊本より有馬に召し寄せる。
1638 寛永 15 01.22   四郎の甥小平を捕らえる。
1638 寛永 15 01.26   オランダ船、また砲撃する。砲身破裂し、船員が惨死する。
1638 寛永 15 01.28   オランダ船抜錨、帰帆に着く。
1638 寛永 15 02.01   信綱、四郎の甥小平を城中に遣わし、渡辺小左衛門の投降状を渡させる。城兵はこれを謝絶する。
1638 寛永 15 02.04   細川忠利、島原に着陣する。
1638 寛永 15 02.05   立花宗茂、島原着陣。
1638 寛永 15 02.09   鍋島勝茂、小笠原中真、小笠原長次島原に着陣。
1638 寛永 15 02.10   この頃、城中では連日太鼓を打って鼓舞する。
1638 寛永 15 02.11   信綱は日向の金掘夫に坑道を掘らしたところ、城内よりも穴を掘り進めていた。
この日、穴が相通じたため、坑道内で会戦が起きる。
城兵は、糞汁を流し込み、攻城軍を悩ませる。
1638 寛永 15 02.15   教徒の山田右衛門が裏切り、延岡藩主有馬右衛門に内応の矢文を送る。
城内は動揺する。
1638 寛永 15 02.21   城兵が夜襲を決行する。
城より出て、黒田、鍋島、寺沢の陣営を襲うが失敗する。
この時、城中の糧食・弾薬無くなりつつある。
1638 寛永 15 02.24   信綱は、糧食・弾薬尽きだしことを察知し、いよいよ総攻撃の部署を定める。
1638 寛永 15 02.27   攻囲軍、総勢12万余、一斉に攻撃に入る。
出丸、二の丸、本丸海手の一部堕ちる。
1638 寛永 15 02.28   原城陥落・天草島原の乱終結
本丸陥落する。
細川藩士陣佐左衛門、四郎の首を挙げる。
諸兵競って教徒等を大虐殺する。
老幼男女あまねく焼殺、刺殺、斬殺され尽くす。