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国照寺 円通寺  苓北町志岐 



 万松山 国照寺
 宗派 曹洞宗
 開基 正保元年(1644)
 所在地 苓北町志岐
 開基  鈴木重成
 開山  一庭融頓
 特徴  天草四ケ本寺の一、寺領45石
 
 
 


 萬松山国照寺

 慶安元年(1648)初代代官鈴木重成の保護の下に創建され、長崎皓台寺の住職一庭融頓禅師を開山として迎え、天草4ケ本寺の一つとなり、末寺・末庵を持った。
 開山融頓禅師晋山12月13日代官より寺領45石の証文を受け、以後白木尾村、年柄村の寺社領を管理した。
 ここの庭園は広大な寺域の中に自然の美を巧みに生かした禅庭園で、天保9年(1838)完成した。庭園は町指定文化財である。

 昭和46年8月24日
 苓北町指定文化財

 
萬松山国照寺の由緒

 天草曹洞宗西の旧本寺である当山は、寺号を、萬松山功徳林国照寺と称します。徳川幕府は、1637〜38年(寛永14〜15)の天草島原の乱後、1641年(寛永18)に天草を直轄領(天領)とし鈴木重成代官が着任して乱後の治世に当りました。
 萬松山国照寺は、乱から6年の星霜を経た1644年(正保元)6月、重成公の兄石平正三大庵主を開基・勅特賜了外廣覚禅師一庭融頓大和尚を開山として、鈴木重成公によって創建された曹洞宗寺院です。

創建の目的は様々であったと思われますが、天草島原の乱の犠牲者の追善供養・仏法興隆・民心の安定を図ること等が推測されます。
 山号の萬松山功徳林は、開基正三大庵主の父・萬松院殿月巌照心居士、母・功徳院殿桂壁貞芳大姉に由来しています。
 当山は、天草四ケ本寺(国照寺・東向寺・円性寺・崇円寺)の一つとして旧幕時代には寺領45石でしたが、明治6年上地となりました。
 裏山の『新四国88ケ所霊場』は、1649年(慶安2)、民心の安定を図るために設けられた霊場であり、毎年3月21日の大師祭は大勢の参詣者で今なお盛況です。
 苓北町文化財指定の国照寺庭園は、広大な寺域の中に自然の美を巧みに生かした禅庭園であり、当寺11世中興恵天禅師によって天保年間(1830〜)に築造整備されたものです。又、境内を囲む池は、心字形に掘られていて特徴があります。
 1993年(平成5)には本堂屋根瓦葺きの銅版葺き替え・伽藍修復工事等を完工し、闢350年記念大祭と落慶法要を翌年2月に厳修し現在に至っています。

 1999年(平成11)5月吉日
 20世 国照寺住職 活融琢道(清光)合掌

 

 
  由緒

 天草曹洞宗西の本寺である当山は、寺号を萬松山国照寺と称し、徳川幕府が天草の乱後切支丹宗の絶滅を計る目的で、天草に寺院の増設を命じ、島民に仏教を奨励した際、時の天草代官鈴木重成が幕命に因り、今を去る318年の昔、即ち正保元年(1644年)6月其の兄正三を開基とし、一庭融頓和尚(賜紫の勅定を得た名僧で来唐覚禅師)を開山として創設した曹洞宗禅寺であります。
 慶安元年(1647年)12月諸堂を完成して開眼供養を行い、同月最初の晋山式を挙行致しました。次いで同2年4月21日、民心の安定を計る為88箇所の霊場を設けましたが、爾来毎年陰暦3月21日の盛大な大師祭は当山の重要な年中行事となり、近郷近在からの参拝者で全山人を以って埋まる盛況であります。
 11世慧天和尚の代に、七堂伽蓋を建立して、内容外観共に天草四本寺中随一の偉容を呈するに至りましたが、安政元年(1854年)14世祖珍和尚の代に、惜しくも出火し、一部を焼失し更に翌年再度出火して全焼しました。
 明治12年(1879年)16世徳隣和尚代に、郡中よりの寄進を受けて本堂庫裡鐘楼堂を再建しましたが、歳月を経るに従い雨漏り白蟻被害等に因って漸次腐朽したので、18世良遵和尚代より其の改築が要望されていましたが、時偶昭和16年第二次世界大戦となり、極度の物資窮乏に陥り、止むを得ず、修復に修復を重ねて辛うじて維持して来たのであります。然るに、最早本堂は修復に耐えない程腐朽が甚だしくなり、開山堂兼位牌堂は危険状態に陥りましたので、遂に寺有山林の立木を処分して、基金とを更に檀信徒のご芳志を受けて、昭和37年(1962年)恒久的近代建築様式を   本堂及び開山堂兼位牌堂を再建したのであります
 因みに旧寺領は総石高45石でありましたが明治6年上地となりました。
        
       昭和37年12月

          19世保道代



   開基一庭融頓の墓

   国照寺歴代住職墓地


 庭園  国照寺裏 



円通寺 苓北町志岐
























《註》円通寺は老朽化のため解体され、現在は本堂は無い


白華山 円通寺
の由緒

 白華山円通寺は、天領天草の初代代官鈴木重成公によって最初に創建された天草郡中の祈祷祈願寺である。1637年秋〜38年春(寛永14〜15)の天草島原の乱から5年の歳月を経て、1643年(寛永20)、重成公の兄、石平正三大庵主を開基・勅特賜了外廣覚禅師一庭融頓大和尚(長崎・皓□寺伝法開山)を拝請開山として当山は創建された。
 歴代23世と356年の星霜を経た由緒ある当寺の本堂再建は断念されたが、寺域を整備し、本尊の阿弥陀如来と二十五菩薩は、1994年(平成6)7月に苓北町文化財指定を受け、現在、本寺の萬松山国照寺の本堂横に建立された阿弥陀御堂に安置されている。


 


円通寺遠景 志岐城址より望む

円通寺
 中央のこんもりした山にある。
 志岐城址より望む




阿弥陀如来と二十五菩薩  国照寺


 

 





阿弥陀如来と二十五菩薩の由来

 鈴木重成公が上方代官として大阪におられた時、隠田(脱税のための隠し田)が多数発覚し、伏見奉行小堀遠州は、男女全員数十名の死罪を下知された。
 しかし、重成公は、「隠田は確かに重罪だが、家康公以来、この様なことで女子供まで処刑されたことはない。身命をかけても救わねば。」と伏見奉行と談判され、一方、この間、正三和尚は一晩中読経して神仏の加護を祈られた。そして遂に、女子供のみは助命と決した。
 その後処刑された人々の私財は、管轄していた代官に賚賜された。そして、それを受けた正三和尚は、隠田処刑の人々の菩提を弔うため、阿弥陀如来と二十五菩薩像を刻み、足助(現・愛知県東加茂郡足助町)の十王堂に祀られた。
 然るに、鈴木代官御来島の折、この一佛二十五菩薩像は、寺社や仏像が乱によって失われていた天草の信仰の拠り所になるようにとの重成公と正三和尚の思いが込められつつ、足助の地よりはるばる天草まで移されたのである。
 因縁深いこの一佛二十五菩薩像は、隠田処刑の人々と天草島原の乱の犠牲者の供養仏であると共に、天草島民のために、4万2千石から2万1千石への石高半減を嘆願(将軍直訴)し、切腹して一命を捧げられた重成公の持仏であり、今なお島民の平穏無事を祈願する祈祷仏である。

 尚、近年では、1998年(平成10)5月に円通寺の境内整備にかかり、阿弥陀如来石尊像・山門・東司・白塀等を建立した。歴代墓地も整備し、五輪の塔を建て、安住を懇願した。
1999年(平成11)6月に落慶法要を厳修し、現在に至る。
 
 1999年(平成11)6月吉日 
 国照寺住職 円通寺兼務住職 活融琢道 (清元) 合掌



























≪管理者雑感≫

管理者には、宗教観はないが、古刹と言われるお寺を訪れるのは好きだ。
天草はかつて、キリシタン一色に染まった一時期がある。
ここ志岐は、天草で最初にキリスト教が伝来した土地である。
時の領主は、志岐隣泉。
時は、戦国時代まっただ中。
本来平和な島であるはずの天草島も、その時流に翻弄されていた。
キリスト教宣教師、アルメイダを招いたのは、隣泉だ。
それは、キリスト教という宗教観に魅入られたのではなく、キリスト教を通じた貿易の利を求めたと言われている。
対岸の島原口之津あたりの繁栄を目にしてのことだ。
キリスト教側にとっても、純粋に精神(例えば、迷える子羊を救うというような)として、宗教を広めようとしたのではなく、そこには自国の権益拡大の先鞭に立つ役割があったことは、事実だ。
あわよくば、日本を属国にする意志があったかどうかまでは分からないが。
結局、隣泉も、キリスト教に帰依し、自領の富を求めたが、キリスト側にとって、天草が利益にならないとして、おざなりにした結果、隣泉も怒って、棄教した。
では、なぜ、天草がキリシタンの島と言われるようにキリシタン一色に染ったか。
また、究極として天草島原の乱を起こすまでになったか。
それは、百姓(現代的にいうと一般大衆)が、為政者にあまりにも虐げられてきたためだ。

さて、言いたかったのは、志岐隣泉が受洗して暫くして棄教したが、この志岐は、天草どころか、近郊のキリシタンの一センターであった。
そのため、この志岐で宗教会議が開かれたともいう。
また、画学舎なども設置され、一時期は、正にキリシタンの聖地(大げさに言えば)でもあったようだ。
しかし、その後のキリシタン弾圧で、当時の設備等は破壊され、今やその史跡は幻となっている。
そこで、管理人は考えた。
ここの国照寺が、そのキリシタン施設の拠点ではなかったかと。
有明町の南蛮寺(正覚寺)を例にとるまでもなく、キリスト教関係の施設跡に、寺を建設することは、容易に考えられる。
今となっては、何の史料も残っていないので、確かめようがないが。
歴史はロマンだ。
このように、史料として残っていないのを、空想として、全くの空想としてではなく、ちょっと根拠のありそうなものとして、昔先人達が、この地でどんな暮らし、どんな考え、そしてどんな立場にいたか等を考えると、歴史って本当に面白いな、と思える。